【留学体験記】第1話 非行少年: どん底までの物語

始めに

こんにちは!

今回はIvy leagueのコロンビア大学や世界ランキング8位のUC Berkleyに合格したShuheiさんの留学生活や留学に至るまでの全てをインタビューしました!

記念すべき第1話は、「非行少年: どん底までの物語」について迫ります。

プロフィール

名前:Shuhei Koike
年齢:23歳(2025年現在)
出身:東京
専攻:Economics
経歴:高校卒業 → DVC → UC Berkley

第一話 

幼少期

物心ついた頃から、父の影響でキックボクシングを習っていた。父は格闘技経験者であり、自然と私もその道に足を踏み入れることになった。

私は格闘技には二つのセンスが必要だと思っている。一つはテクニックセンス、そしてもう一つはメンタルセンス——つまり、殴られても殴り返す気持ちや、怖さを超えて前に出る勇気だ。

しかし、当時の私はとても心優しき少年だった。アリ一匹すら潰さないどころか、道端で踏まれそうになっているところを、わざわざ指で避けて助けていたくらいだ。きっと私が死んでも、地獄に垂らされるのは「蜘蛛の糸」ではなく、あの時助けたアリたちがつなぎ合わせた「アリの糸」に違いない。こんな心優しき当時の私には、当然人を殴ることに抵抗があり、ジムに行くのもあまり気乗りしなかったのを覚えている。

余談だが、那須川天心と同じジムに所属していたので、一応「天心の兄弟子」にあたる(笑)。

また、格闘技以外でいうなら、当時はゲームやカードゲームが一切禁止されていた家庭環境で、私はよく積み木で遊んでいた。

小学生時代

そんな幼少期を過ごしながら、小学生になると格闘技と並行して野球を始めた。

ところが私はもともと体が弱く、低学年の頃は毎週末発熱しては野球を休み、体を思うように動かせない日々が続いた。それでも週3回、ボクシングジムには通わされていた(笑)。そのお陰もあってか、中学年からは体を壊すことがほとんどなくなった。

私の住んでいた地域の公立小学校は、区内で最も治安が悪くて有名だった。進学先の中学も当然その延長線上にあり、私はその中学に通うことがとても嫌だった。小学生には嫌がらせをしてくる人が一定数いる。ボクシングジムに加入した時に、「ここで得た能力を他所で一切使用しない」という契約書を書かされたので、当時の修平少年はそれを律儀に守り、嫌な奴にも暴力を使わなかった。

いや、正確にいうなら使えなかったのだ。前述したように、当時の自分には、格闘技におけるメンタルセンスが無かった。リングの上でグローブをつけた状況ならまだしも、教室でステゴロで人を殴るなんてできなかったのだ。お陰様で小学5年生の時には、やり返されないからと舐められ、とても酷い嫌がらせをされた。

そういった背景もあって、小学6年生の頃から別の中学を目指して受験勉強に励むようになった。

中学生時代

なんとか中学受験に成功し、別の中学に入学したものの、すぐに落ちこぼれてしまった。

そこから私の長い長い反抗期が始まる。幼少期からずっと抑圧された環境で育った反動もあってか、どんどん道を外れていった。両親や先生に反抗し、中学ではわずか1ヶ月で5件ほどの退学届をもらった時期もあった。家に帰らない日々が増え、次第に非行に染まり始める。今振り返っても「荒れに荒れていた10代」だった。

今でこそ取り締まりが厳しくなったらしいが、当時の歌舞伎町では10代の未成年が深夜に飲酒・喫煙をしていても、警察は何も言わなかった。

14歳になると、姉がかつて出入りしていた歌舞伎町の岩盤浴「OSSO」(数年前に取り壊し)に通うようになり、それをきっかけとして夜の歌舞伎町で遊ぶようになった

少しずつ家を離れた生活が日常となっていき、大して知りもしない人の家で寝泊まりしたり、同年代の5人組でホテル暮らしをしていた。

また、生活費を稼ぐためにハスラーとしても生活していた。危ない橋を渡った数なら、恐らく誰にも負けない。

「歌舞伎町に法律はない」——歌舞伎町の誰もが知る謳い文句だ。

そんな私を見かねた母が、ある日突然オーストラリアでの2週間の留学プログラムに勝手に申し込んだ。母は海外が大好きなので、私にも良い影響があればと思っていたそうだ。何も知らない修平青年は、出発の3日前に母から航空券を手渡され、「行ってきなさい」と言われた。私はブチギレて家出をし、結局飛行機をブッチしてしまった。そのキャンセル料15万円はいまだに母に返せと言われている(笑)。

高校生時代

高校に進学しても生活は大して変わらなかった。学年ビリなんて当たり前で、勉強に興味など一ミリもなかった。

高校には直接行くことはあまりなく、満喫で好きな漫画を読んでから午後登校をしていたので、結局年間の遅刻数は100回を超えていた。

もちろん、体育祭や文化祭などの行事は楽しかったが、学校の大半は授業である。授業なんてアラビア語だろうが日本語だろうが自分にとってはどれも等しく興味がない。

高校3年生になると、周りが良い大学や学部に行くために焦り出す。自分にはその気持ちが全く理解できなかった。

学びたい学問なんて存在しないし、勉強なんて全くもって楽しく無いからだ。

しかし、そんな私にも転機が訪れた。

第2話に続く

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